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祖母の命日、五木寛之著『無力(むりき)』を読み、人は揺れ動くものと改めて知る

今から30年前の8月6日は、祖母の命日。その日も、朝からセミが鳴いている晴れた日だったことを覚えている。毎年思い出すが、いつも新鮮に思い出す。

一昨年の記事では、やはり広島の原爆の日にも触れていた↓

https://kazukun2019.hatenablog.com/entry/2019/08/06/221151

命日の日は、せめて自身がおだやかに過ごせれる日になるようにと願い、穏やかに過ごせたら感謝する日と、いつからか決めている。それでも、穏やか故に、その対比も出てくるのだが。

そんな日に読み終えた本。本のタイトル 無力と書いて、むりき と読む。

むりょくではない、それなりの意味あるチカラを語っているのではないかと表紙を見ていつかに買った一冊を読んだ。

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以下、気になった箇所

・自力であれ他力であれ、そのあいだで揺れ動く状態を否定的にとらえるのでなく、人間はその二つのあいだを揺れ動くものであるととらえる。自分はどちら側なのだ、と頑張るのではなく、肩の力を抜いて、不安定な自分のふらつきを肯定するのです。これが「無力(むりき)」という考え方の根本です。

・そういう自分の状態を正直に見て、自分の中にある自力の要素と、他力を憧れる気持ちとのあいだで揺れ動いている不思議な感覚。そこを「無力(むりき)と考えるようになりました。

・人は自力で生きるのか、それとも他力によって生きるのか。相反する二つの力のいずれかではなく、私たちは自力と他力のあいだを実は分子の運動のように、往復運動を繰り返しながら動的に生きているのです。その状態をどうとらえるか。そこを考えていくときに「無力(むりき)」という言葉を置いてみると、妙にしっくりくる気がするのです。

・誤解されがちですが、たとえば「目には目を、歯には歯を」というのは、決して「復讐のすすめ」ではありません。被った害に相応するものを返す、ということです。ただし、一発殴られたら一発殴り返すのはいいが、二発はいけない。倍返しとか、怒りにまかせて半殺しにするなど許されない、と教えています。

・そう考えると、ブレるというのは人間のあり方として自然なことです。物事を固定的にとらえず、時代とともにブレながら生きる、それが人間のあるべき姿ではないでしょうか。(中略)この世では、変わらないものなど何ひとつない。すべてが変転していくのです。

・誰しも生まれてくる時代も場所も、自分で選ぶことはできません。だからこそ、今がどういう時代で、どういう場所で生きているのか、人間が自分の足で歩き出すには、現状を認識するということが最初の一歩です。まず、現実を「あきらめる」。この場合の「あきらめる」とは投げ捨ててしまうとはとらえない。「明らかに究(きわ)める」ということ。きびしい現実を知って無力感に陥るのではなくて、つらいことであれ、曖昧なことであれ、はっきりとそれを受け止める。曖昧なら、曖昧だということを受け止める。一人一人が、そうして無力の第一歩をふみだすことです。

・戦後を代表する思想家の花田清輝は、「楕円の思想」を説いています。ひとつ中心を持つ真円ではなく、二つの中心のある楕円。ルネサンス的思想というのは、その中を揺れ動く楕円の思想のようなものだというのです。私流に解釈するなら、一つの円でもなく、二つの円があるものでもない。自分を中心とする円のなかで物事を決めるのでもなく、両輪あるなかでどちらかに決めるのでもない。あるいは、二つの円が重なる場所にいるのでもない。

・禅の教えで、よく「無心」ということがいわれます。心を無にして雑念を払え、ということだと理解されがちですが、そもそも、次々と心に浮かんでくる雑念を振り払おうとすると、そのこと自体が雑念となってしまう。そういう、ふわっとした状態は、宗教的確信もなければ思想的根拠もないと考えられやすい。しかし実は、それこそが人間本来の正しい状態ではないかと思うのです。

・無力(むりき)というのは、がんと対立するものでもなく、調和するのでもなく、それと共存する考え方だろうと思います。自然を敵ともせず、服従するのでもない。どちらかに決着をつけるというのではなくて、その微妙な間のところで現実を生きていく。それが、自力と他力を超えた第三の道、無力(むりき)の道だろうと思います。

・では、無力(むりき)と無力(むりょく)のちがいはどこにあるのか。無力(むりょく)は、漠然として頼りないという無力感から、自殺や社会放棄をしたりする人が出てくる。動きのとまった、後ろを向くばかりの姿勢です。無力(むりき)というのは、無力(むりょく)の状態を認識して、揺れ続ける動的な生き方を肯定し、そのなかで何かを目指そうとする。前向きで、自在な姿勢です。

・他力だけにこだわって、朝から晩まで他力でなければ、また自力に偏ったなどと欺いていては駄目だろうと思うのです。自力といっていくら遮二無二頑張ろうと、時代の流れもあれば、社会の動きもある。運、不運というものもある。どちらか片方の力に引っ張られることのない、とらわれない生き方を無力(むりき)といっているのです。

↑参考ここまで

参考箇所が盛りだくさんのヒット作に出会った。五木寛之さんといえば、名著「風にふかれて」というタイトルからして、時には主体的に時にはうまく流されながら、その両方、またはその間で生きていく”振り子理論”を語っている人だと思っていたが、今回も、それを別の言葉で表しているように思った。

これを読んだら、命日も、心穏やかに過ごそうとはするが、決して心の奥底までは穏やかになっていない、なれないものとの間で、今年もやはり揺れ動いていたものと知る。