職場で、まるで定点観測かのように、同じサクラを撮っている。他にも咲いているところは多くなってきた。のに。週末の市内は、昼も夜も歓迎会ムードもあり、早めの花見客で賑わい始めている。
サクラ、桜の方が適かもだが、やはり「散る桜 残る桜も 散る桜」という良寛和尚の辞世の句と言われているものが、浮かぶ。
解説のひとつには、今まさに命が燃え尽きようとしている時、たとえ命が長らえたところで、それもまた散りゆく命に変わりはないと言い切る良寛の心。桜は咲いた瞬間から、やがて散りゆく運命を背負う。とある。
「どうせ同じく咲いたのだから」と続けることも多々見られる。綺麗なものの散りゆく儚さ、綺麗故の儚さとのギャップが、なお、目立たせることになる。花びらがヒラヒラと舞う様子もそれを際立たせているのだろう。
ところが、見渡す限りの桜並木、桜一面の公園にいると、そうは微塵も感じない事があった。あふれんばかりに咲き誇る様に、ずっと顔が綻いでいたのを覚えている。
いつから、何から桜を悲しいものを含んだものと捉えるようになったかは知らないが、桜は楽しいものであり、明るくさせるものと、自分の中では定着している。
あの桜をまた見てみたい。
昨日の桜
今日の桜
ある年の公園の鳥居越しの桜
ここまで書くと、サクラネタはシリーズ化したのだろうか?