徒然ブログ 風まかせ筆まかせ

日々の気づきと雑感 食べもの、映画、本に天気が多いです

読了『眠れぬ夜のために』五木寛之著からの、生きる意味考

ヒルティの作品によく似たタイトル。五木寛之の五十年にわたる小説やエッセイからの抜粋を40のテーマに絡めランダムに並べたもの。このブログのタイトルの一部、風まかせも、自分の生年に刊行された初のエッセイ集のタイトル、『風に吹かれて』から来ている。特に響いたものと出展、感想を。ちなみに、眠れぬ夜があったから手に取った訳ではない。

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・『ぼくは二元論者です。すべてのものは、対極にあるふたつのもののきわどいバランスの上に成り立っている。成熟が美しければ美しいほど、老年が見事であればあるほど、若さのみずみずしさも、無鉄砲さも輝きを放つ。』[不安の力]

→私と相対主義という章にあるもの。風に吹かれて、風まかせを端的に表している。人は、両者の間を、両極の間を、絶えず揺れ動く存在。絶対を求めて常に揺れ動き、彷徨い続ける不確かな存在と考えていたのと合致したものがあって安心したもの。

・『たしかに、雪は美しい。詩情もある。だが、そこに暮らしている人間にとっては、雪はおそろしい、うとましいものなんだよ。都会から見る地方の人間らしい生活とは、実際には、きみたちの想像するようなものじゃない』[海峡物語]

→よく言ってくれた!!

雪は楽しむものというのは、接する頻度が少ない人の考えのほか、そういう考えで乗り越えようとする現地の人の一部の考えでもあるだろう。前者は知らないゆえの致し方無しと思うが、後者は痩せ我慢の域を出ていないような気がする。例え楽しむというものがあるとしても、根底には恐ろしいものというのは変わらない。雪がある事で、どれだけ生活に不便などというレベルではなく、ケガや命といったもっと大きなものに直接影響を及ぼす存在であると考えれば、恐ろしいものとして捉えなければならない。受け入れるではなく、仕方なく毎シーズン、無事にその都度都度付き合う存在でしかないと思っている。そこには、ポジティブもネガティブもない。

・『極論すれば、人生の目的とは、おそらく最後まで見出すことのできないものなのだろう。それがいやだと言うのなら、いっそ自分でつくってしまえばよい。自分だけの人生の目的をつくりだす。それには、ひとつの物語をつくることだ。自分で物語をつくり、それを信じて生きるのである。』[百寺巡礼3]

・『人生の目的は、「自分の人生の目的」をさがすことである。自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を見出すことである。変な言いかただが、「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」とい言ってもいい。』[人生の目的]

→この2つと同様の事は、いつからかわからないが思っていた事。それとは、

『生きる意味がないと生きにくい人は生きる意味を考えるといい。生きる意味を考えると生きにくい人は考えない方がいい。自分に都合良く生きる意味を扱えばいい。ただし、せっかく人間に生まれたのだから、生きる意味を考えるのが、人間らしいというものではないだろうか。結果、生きる意味が見出せたらそれはそれだし、見出せなくてもそれが答えになる。両者に優劣はない。ある時、これが生きる意味とわかったとしても、年月と共に変わっていくこともある。その時のものが、必ず最後まで変わらないとも限らない。早くに見出したとしても、固定されるものでもなく、変わることに良し悪しはない。かえって、そんな早くに悟ったかのように固定できるものだろうかと疑いたくもなる。そうやって、揺れ動きながら生きてゆくのがヒトなのだろう。』

となる。作者を意図した訳ではないが、こうなる。

前回のブログに続き、哲学の秋シリーズとなっているかのように、珍しく🖌が進んだ。実は、今のところ一番留めておきたかった事。

こういう事を、というか、こういう事も!考えている私だったりする。