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映画『私はダフネ』を観て、悪気のなさを考える

連日連夜のシアターネタ。今回も昨日と同じ映画館の奇しくも同じスクリーンで、『私はダフネ』を観る。昨日から一列下げて、ひとつ左寄りのベスポジ!

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(以下、公式ページから)

夏の終わり、父のルイジと母のマリアと三人で休暇を過ごしたダウン症のダフネ。しかし、楽しいバカンスが一転、帰り支度の最中に突然マリアが倒れてしまう。すぐに病院に運ばれるが治療の甲斐なく、帰らぬ人に……。あまりに唐突すぎる母の死に、ダフネは泣き叫び、感情を露にする。ルイジはそんな彼女を心配し、必死に落ち着かせようとするが、ダフネは辛く当たってしまう。

マリアの葬儀が終わり、普段の生活へと戻る二人。ダフネは、元来の明るさと、勤務先のスーパーマーケットの同僚や友人の支えによって、少しずつ日常を取り戻していく。一方、気丈にふるまっているようにみえたルイジは、喪失感と不安で押し潰されそうになっていた。一家の精神的支柱であったマリアがいなくなってしまった今、ダフネと二人だけで、どう生活していけばいいのか。

そんな父の異変に気付いたダフネはある提案をする。それは、母の故郷コルニオーロへ歩いて向かう、ことだった……。

とある。

ダウン症を調べてから出かけて行った。その素直すぎるストレートな物言いが、時には人を不快にさせるが、時には言い当てていることもあり、コレこそ、悪気のない故の事と知る。元来、悪気のないタイプなのだ。その彼女を励まそうとする周りや父が、いつの間にか、励まさせる立場に変わっているのが、しみじみ観れるポイントだった。

悪気がない人、ある人、というのは、簡単にわかるもの。ある人とは、口の良さ、悪さとは違う、何かそこに感情が加わったものの言い方をしてしまう人のこと。大抵の人はないが、感情を乗せるスイッチのようなものを持っていて、誰にでも、または特定の人にだけ、そのスイッチを押してしまう人の事。

腹立たしいが、自分がそういうスイッチを持っていない人種である事に安堵を覚える。

他人の心は他人のもの。変わるとか、ましてや変えようとか思うことはもうないが、類は友を呼ぶというなら、スイッチを持たない者同士で繋がっていたいものと思う。

映画から脱線しているが、こんな事も考えたという事で。